後悔しないように批判したい

『オリンピック中止して欲しいと言ってる人も、どうせ始まってしまえばワーワー応援して盛り上がるんでしょ』みたいな論調がどうしても引っかかってしまいます。
『コロナ禍ではオリンピック開催すべきではない』という考えと『でも開催されたらテレビ見て楽しむし日本の応援もする』という考えは、余裕で独立して存在し得ると思います。

ちょっと飛躍しますが、『個人を批判すること』と『体制や組織を批判すること』は結構別物だと思っています。考え方的には、集合論かそうでないかということです。
ワタシ個人の過去の経験からは、個人を批判すると(それが悪口でなかったとしても)後々後悔することが多いです。個人を批判したい時ももちろんありますが、口に出したり文章としてアウトプットするときは、何とかして体制や組織を批判する論調に修正することを目論んだ方が良いというのが実感。対象を体制や組織のようなものにしたほうが、悪口を言いやすいしね。
個人を批判したらなぜ後悔するかって、それはまさに『自分がされたらイヤだから(≒アウトプットしたがばっかりにブーメランとなって返ってきそうだから)』ということなんですが、ネット空間ではこの『自分に返ってくるかも』な気持ちが薄らぐ傾向にあるようです。後悔している人も多くいるのかしら。失敗した時の波及範囲が大きいのもネット世界の特徴っぽい。

オリンピックの話に戻って、このような状況下でも開催されてしまうという事実を憂い、何故こうなってしまったのかを各々反省しながらも、日本や他国の選手の応援をして、終わったら今度こそ通り一辺倒ではない総括をしたら良いのかなと思ってしまいます。応援しようかなと思ったら素直に応援するし、批判せねばなと思ったら集合論的に批判すれば良いかなと。たとえ対象が同じでも。

…というようなことが、普段オリンピックを見ない系パンピーであるワタシの素朴な思いなのですが、オリンピックに思い入れの強い人はまた別の意見になるのでしょうか。