ニュースとか世間とか自分とか

ニュース番組はコロナ感染症ばかりです。まあ仕方のないことかと思います。オリンピックについても、いろんな人がいろんなことを思って様々な発信をしています。発信することについては、いずれの立場の方も当然の権利だと思います。
この「当然の権利」の中には、黙して語らずな人々についても当然あてはまるということも忘れてはなりません。というか、個人の声(発信)の大きさについては、昨今ほどレンジも標準偏差も大きい時代はなかったことでしょう。(上手いこと言ってやった感)

声を大きく張り上げて堂々と不満をぶちまけるのって正直しんどいと思っています。
かといって『思うところあれど黙して語らず』という態度でいると、なんというのでしょうか、世間の声をミュートしたくなる時も稀にでてきます。
世の中をさわがす話題に対しては、必要以上に敏感にならずに、いわゆる『中庸』というやつを目指したいところですが、これだけ振れ幅が大きい世の中ではなにが『中庸』なのかもよく分かりませんね。まあ、外乱起案による感情の起伏は極力小さく保ちたいものです。

というわけで、感染症とかオリンピックとかアレとかコレとかのニュースを見ていて思うことをこれまでの文章とは特に関連なく書いてみます。

  • 政治家の人たちって『最悪の事態』を想定していないのか?
  • 『最悪の事態』を想定しているとしたら、頑なに語りたがらないのは何故なのか?
  • 政治家の人たちってコミュニケーション下手だよね

などなど。一対多数のコミュニケーションってきっと難しいのでしょうけど、とはいえ今の日本の「国民の声」と「政治の声」のチグハグさは素人にとっても目に余ります。なんか意味なく恥ずかしくなるレベルです。ミュートしたい。

そしてまたふと思うのです。上で箇条で書いた内容。素人が知ったかぶって政治批判をしているわけですが、冷静に考えたらですね、「政治家のひとたち」の部分を「ワタシ」に置き換えたらもう、そのまんま成り立つ気がするのです。コミュニケーション下手で、バッドケースを考えないからいざ失敗したときに被害と後悔が大きい。仕事にも私生活にも当てはまるのです。思い当たる節が山ほどある訳ですよ。

『世の中に対して思う事≒自分に対して思うこと』
『世の中について考えるということ≒自分について考えるということ』
というのが今日書こうかなと思った内容です。

逆説的に、外界からの刺激を極力カットして自分の内面に潜り、自分という人間について考え抜くという行為は、以外と自分という人間を見失いがちである、ということも言えると思っています。

こういう内容って、だらだら書こうと思えばいくらでも書けちゃう気がしますね。いくらでも書けても需要は全く無さそうです。そもそも、こんなこと考えてしまうということが、ひょっとしてストレス溜まってるってことなのでしょうか。

はい、おやすみなさい。