歴史に学ぶということ

経験を共有したり、思ったことを伝達したりするための手段として、言葉にしたり文章にしたりするわけです。しかし、言葉や文章で表現できるものは、経験や思考により得られた考えやヒラメキの果たして何分の1でしょうか。10分の1とか、もっと小さい割合ではないでしょうか。そこに例えば映像が加わったとしても、その言葉や文章や映像で表現されたものを自分のことのように感じることは、完全には不可能です。
ブログひとつ取ってみても、「発信したい!」と思ったことを文章に書いて伝えるのってとても難しいですね。この想い、感動、ヒラメキを共有したいと思っても、感じたものと全く同じものを伝えることは出来ないでしょう。
一次情報ですら100%伝えるのが不可能なら、伝聞によって情報密度はどんどん薄れていくことになります。ですから、距離的にも時間的にも遠くになればなるほど、一次情報に込められた想いは薄くなり、最初の想いは忘れ去られていくわけです。

とはいえ、我々は自分たちの経験を後世に残すために、言葉を発し文章を書き映像を保存します。今まで誰もそこに疑問を呈した人はいない。とにかく同世代に伝え、後世に残そうとします。
また逆に我々は、現在を生きている人や過去に生きていた人が書き残したものを見て、そこから多くの情報を読み取ろうと努力します。ときにテクノロジーのチカラをも駆使しながら、ときに自らの想像力により補完しながら、現在の想いや過去の経験を、未来へ伝達しようとしています。
よくよく考えれば、たいへん涙ぐましい努力をして後世に物事を伝え、また逆に歴史から教訓を得ようとしているということです。

以上のことは、「毎日ブログを書いていてもなかなか自分が満足できるような更新は難しいなあ。伝えるって難しいなあ」という想いを文章に書こうとしたものです。ワタシの場合は力不足な部分が大きいですが、やはり難しいですね。