読書、寄り添い

昨日の更新はフィクションであり実在の人物・団体とは関係はありません。しかし感染症が流行っていてもいなくても、自分って周りの大多数とは違うな、と思うことは良くあります。
"なぜならばそう、ワタシは選ばれたものであり普通とはちょっと違う、特別な人間なのだ"というわけでは当然なく、「なんかちょっと生きづらいな。周りに合わせるのしんどいな」という類のやつです。
もう良い大人なわけですが、未だにそんな生きづらさを感じることはあります。ただ、良い大人なので、テキトーに紛らわせて過ごす術も心得ております。

以前、ラジオで「"生きづらさ"を抱えている少数派の人たちに寄り添うもの、それは"文学"である。心にモヤを抱えている皆んな、本を読もう」という言説を聞きました。
"読書"というのはワタシにとっては、所謂文学作品であったとしても、100%エンターテイメントだと思っています。
なので、生きづらい気持ちに寄り添ってくれるもの、というより、現実からの逃避を手助けしてくれるもの、という感覚です。
これ、前者と後者は"読書"に対する想いとして全く異なるものと思っていました。結局は物語なので、楽しめるかどうかだけでしょ、"寄り添い"て何よ、読書と関係ある?、小難しいこと考える必要なんてないじゃん、という感じ。
しかし最近ふと、この両者は、根っこのところでは繋がっているのかな、と思い直しました。

学生の時は結構読書していて、エンタメ小説が大半でただ面白いから読んでいたのですが、実はそれらすべて、ワタシにとっては"寄り添い"だったのかもしれません。今思い返せば、いろいろ思うところあった時期に読んだ物語の印象は、今でも鮮明に思い出せるものもあります。ああいうのって、今読んだらどんな感覚になるのでしょうか。
まあ、多感な時期であれば、読書に限らずなんでも"寄り添い"と言えるかもしれませんが。

今はもう学生ではなく多感な時期でもないのですが、なにかしら本でも読んで寄り添ってもらいたい気分になってきます。こうなってくると「生きづらさ」とかあんまり関係なくて、ただの懐古趣味かもしれません。

ということをつらつら考えながら過去の自分に想いを馳せた結果、『かもめのジョナサン』と『夜間飛行』をひさしぶりに再読してみようかな、と思い至りました。ちょっとワクワクしてきました。

それにしても

このブログ、ほんとうにもう、ただの日記になってきました。本日の更新なんて特に。
後悔はしていない。