コンテンツの消化のしかた

好きな漫画とかゲームとか音楽CDとか、発売日がいつなのか調べ、なんだったらあらゆるツテを用いて発売日前にゲットして、誰よりも先にコンテンツ消化する、という気概を持って生きていた時代もありました。
そんな、得意分野では流行の最先端を走ろうと頑張っていたのも今は昔。
なぜ最速でに消化完了するのをやめてしまったかというと、大人になって時間がなくなったのが半分、元々がそういう質ではなかった(無理して最先端追いかけてた)というのが半分くらい。
今は、「面白そうだな、流行ってるし」なものにすぐに飛びつくことは結構稀で、ちょっと時間をおいた後にまだ「消化しておきたいな」と思えるコンテンツのみ消化しています。流行りには乗れないけど、流行りに乗りたいわけではない人にとっては一番燃費が良い生き方ではないでしょうか。

というわけで、最近やっと「涼宮ハルヒの直観」を読み始めました。

ステロタイプ

東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長の差別的な発言について、数日前に話題にしました。その中でワタシは、以下のように述べました。

ただまあ本人はおじいちゃんですから、きっと言っても分からないのでしょう。

このコメントの問題点をあげますと、

  • 問題の本質をジェネレーションに集約しようとしている(論点ずらし、矮小化)
  • 世の中のおじいちゃんに対する冒涜とも取れる(差別的意識…は言い過ぎとしてもステロタイプではある)

などでしょうか。自分が書いた文章とはいえ、振り返って読み返して気付くことは多いです。

老害」という言葉はよく見るしよく聞くし、自分でもよく使います。割と最近できた言葉ですよね。
ワタシの場合は、ブログの文章で使ったこともあるし、普段の会話で使ったこともあります。意味合いとしては、自分のことを揶揄して使うことが多いと思います。年下に偉そうなことを言って悦に浸っている自分と、そんな自分に幻滅している自分もいる、というニュアンスを込めたくて「オレってもう老害だからね」なんて使っちゃいます。
老害」という言葉の意味として、

  • 自分の経験が正しいと信じているようす
  • 自分の考えが正しいと信じているようす

くらいに考えているためです。
(辞書をあたったわけではない。というかまだ辞書には載ってない?)

ただこれも、ワタシがそう思っていると言うだけで、世の中には

  • 『老い=害』である

と「老害」の意味として捉える人も居ると思われます。ですからひょっとしたら、不用意に「老害」なんて使おうものなら、こちらにその気がなくとも「差別された」と思う人がいるかもしれません。

「そんなの気にしてたら何も言えないよ」というのも「立場のある人が言うから問題なのであって仲間内で言う分には何も問題ない」というのも全くその通りだと思います。
思いますが「世の中にはステロタイプな人は多くいて、自分も例外ではない」という認識は最低限必要かなと感じています。特に自分のことというのは意外と自分では分からないものです。
自分の発信に対して「これステロタイプかも」と思うことは大事なことだと思います。

ウハウハ印税生活への憧れ

作家と呼ばれる職業に就きたいと思ったことがあります。ぶっちゃけ小説家です。物語を考えて文章を書いて本という形にして他人様に読んでいただく、というのは、想像するだけで夢があるなあと思います。
……あ、ちょっと間違えました。自分が書いた本を他人様に買っていただいてその印税でウハウハな生活を送りたいです。印税生活、夢がある話だと思います。

森博嗣さんのエッセイだったと思うのですが、小説を執筆するのに最終的な全体の文字数をまず決めると書かれていて、その文字数が確か10万文字とか20万文字だったと思います。
ワタクシ、小説を読むのは好きですが文字数で言われてもピンとこなかったので近場の文庫本で確認しました。そしたら確か300ページ分くらいに該当していて、確かに薄すぎず厚すぎない文庫本小説というところの文字数でした。
文章を書くと言えば、小学生の時に読書感想文(400字詰原稿用紙2枚)を完成させるのに軽く2時間以上はかかっていた記憶があります。とにかく自分が思ったことを文章という形にするのご苦手でした。そんなワタクシからすれば20万文字とかなかなか途方もない文字数です。やっぱり作家の方はすごいなあと思ったものです。

さて時は流れて今。
このブログはかろうじて毎日何かしら文章を書いて更新しているわけですが、1回の更新の文字数はだいたい500文字から1500文字の間くらいです。かかる時間は、ちゃんと測ったことはありませんが、書き初めてから完成するまで長くても30分くらい、平均したら15分くらいかなと思います。読書感想文の苦悩を考えると、成長したものです。
15分で1000文字書けるとすると、1時間で4000文字です。単純計算で、50時間で20万文字書ける事になります。例えば、1日1時間の執筆を1ヶ月半続ければ、書店に並んでいる本一冊分の文章量になるということです。これはもう、印税ウハウハ生活のためには、ブログなんて書いている場合ではないかもしれません。

当然のことながら、何を書くかが決まっていないといくら時間をかけても何も書けないでしょう。ただ一方で、何を書くかが決まっていなくても、このように具体的な数値を用いて語ると、一気に現実味が帯びてきてやる気が起きやすいということはあると感じています。やっぱり、多少本筋からはずれていたとしても、具体的で現実的な数値を用いて考えることで、自分にブーストかけて目標に向かう推進力を得る、という手法は結構使い所があると思います。ブーストかかったら本筋に必要なアイデアも出てきやすいし。

ということで、ウハウハ印税生活のためにさらに何をしたらいいか妄想を膨らまそうかな。
(実行に移すとは言ってない)

ジェンダーに関する差別的発言のニュースにふれて考える

東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長が差別的な発言をして、たいそう炎上しているようです。冗談を言ったつもりが冗談になってない、というか、冗談でも言えるということはそれはもう本心ということで、下手なことは言うべきではないのにな、て感じ。
ただまあ本人はおじいちゃんですから、きっと言っても分からないのでしょう。

こういった話題からは一定程度距離を取っておきたいと思う方が気は楽ですよね。ただ、楽な方に我が身を置いておいて良いのか、と自問することはあります。

今更ですけど高齢化社会と言われて久しく、80歳だろうが90歳だろうが現役バリバリで働く人は今後も議員に限らずいっぱい出てくるでしょう。アメリカのリーダーですら70歳台ですからね。
「この国は若者が引っ張っていくんだ」なんて言ってたのが「この国は年寄りのものだ」となる日も近いかもしれません。それくらい歪な人口ピラミッドの形をしていると思うのです。そういえば弊社における「定年」の考え方も最近ドラスティックに変わりました。

そんな社会で生きる我々にとって、高齢者の台頭は今後もしばらく続くのではないでしょうか。議員なんてその最たるものでしょうし。
ということは、ジェンダー平等の観点からあらぬバイアスを持った人が組織のトップにたつ可能性も、むしろ今後の方が高いと言えるのではないでしょうか。
歪な人口ピラミッドにおいては、『高齢者=ジェンダー平等の考えが古い』という固定観念とともに、そのような風潮やむなしというバイアスをそのまま受け入れて良いのでしょうか。
というと、まあ困るのは自分達ですな。内輪だけですべてのことが完結することは昨今稀ですからね。
このような話題からは一定距離をとりたいと思いながら、何もしなかったら大きな流れに身を任せるのと同義となり、では大きな流れを読み誤らないようにするべきだけど、果たしてそれだけで良いのか、と自問する日々です。

特にワタシが属しているのは、「9割以上が男性」&「年々平均年齢が上がっていってる」という業界です。真剣に考えたら、対岸の火事とはいえない案件ですね。

休みの日は公園

比較的都会に住んでいるので、大型の公園(東京ドーム○個分とか言えそうな)が近所にあります。ここ数年は、毎週のように…は言い過ぎかもしれませんが、割と頻繁に公園に行ってます。

そのような公園で周りを見回しますと、小学生くらいの子供がいる家族がやはり一番多いですね。次が、お仕事をリタイアして久しい老人でしょうか。たむろして青空将棋とか囲碁をしてたりします。
20歳前後くらいの人たちはあんまり見かけません。まあ、そりゃあそうか、と思いますよね。自分も20代の時は休みに公園に行くなんて選択肢はなかったし。
リタイア直前くらいの人たちもまた、あんまり見かけません。それくらいの歳になったら自分は休日は何をしているのでしょうか。日がな一日、引きこもって趣味に没頭できてたら幸せかしら。

本日はだいぶ暖かくて、先週までとうってかわって、公園には多くの家族や老人が遊びに来ていました。例年通りだと思います。先週までは本当に人が少なかったのですが、緊急事態宣言下だからではなくて、寒いからだったのでしょうかね。 f:id:m-zaki:20210207234330j:plain

自分だけしか価値が分からないものを作っていきたい

「これは〇〇の役に立つことなんだ」と思うことは大事ですよね。ボーっとしてたらただ何気なく過ぎゆく時間でも、そのように考えるだけで意味あるものに変わります。モチベーションも上がるし。さらに、何かしらのアウトプットに繋げることができれば言うことないですね。他人のためにやったことでも自分のものとして定着していきます。

ただ、そうは言っても、やっぱりなんの役にも立たない時間というものも、なかなか良いものだと思います。他人のこととかアウトプットのこととか意識しない。ただ見るだけとか聞くだけとか考えるだけとか走るだけとか。目的不要、何か感想を抱いてもいいし抱かなくても良い。本読み終わって「面白かった。内容思い出せないけど」とか、最高の読書体験だと思います。

そのような「どう考えても誰の役にも立たない無駄なもの」こそ、当人にとっては最も価値あるものの一つになるはずなんです。

昨日、回文について書いて更新した後、無駄に一生懸命頑張って回文を考えてたら思いの外夜更かししてしまった自分への言い訳になります。
今日のタイトル、なんか自己開発セミナーぽいですね。

回文のすゝめ

子供が学校の図書館から回文の本を借りてきました。テーブルの上に無造作に置かれていたので何となくパラパラ読みました。いてもたってもいられなくなったので、自分でも考えてみました。
いざ、刮目せよ。
(自分で考えたけどもし既出あったらごめんなさい)

地球這う諭吉
富の象徴が地べたを這いずり回る、そのギャップに酔いしれる。

ワイと背、秋と木、汗と岩
秋の夜長、庭に佇み侘び寂びを感じるイメージで。

遺体、怪我、スマート、しかしトーマスが携帯
どんなにスマートな犯行でもワタシの目は誤魔化せないぞ。犯人はトーマス、あなただ!

テレビ子、南に奈良がな、居ないながら、何皆、身媚びれて
南に奈良が居ないってなんやねん。でもテレビって、見なかったら見ないでもなんとでもなるよね。


……
………
おかしいな。借りてきてた本よりは上手くできると思ったんだけどな。なんというか、キレがないな。せめてもうひと伸び欲しい。
ちょっとなんか悔しくて寝れないかもしれないので、もうちょっと考えてから寝ます。