sessionの特集が陰謀論だった

一昨日のsessionの特集陰謀論を信じてしまう人についての特集でした。たいへん面白かったです。
昨日、陰謀論についてテキトーに茶化した文章書いて更新しましたが、これ聞いといたら良かったかな。
sessionについては結構聞いてますが、翌日の出勤の運転中にラジオクラウドで聴く、というルーチンが出来上がっているので、間一髪間に合わなかった。

日本人は「ふつうの人」が陰謀論を信じやすいらしいです。「ふつうの人」が陰謀論的なコンテンツに触れた時に、「自分の意見と同じだ」と感じてはまっていくそうな。比較対象がアメリカだったので、流石にアメリカと日本では「ふつう」の定義が違ってくるのでは?と思いましたし、日本単体で見たとしても「ふつう」の定義は難しいでしょうね。ただ陰謀論を信じてしまうプロセスについては、まあ頷ける内容でした。要は、誰もが多かれ少なかれ陰謀論的コンテンツに拐かされる要素を持っているということでしょうか。テレビやインターネットやSNSが、それら日本人の意識の深層にある陰謀論的な部分を増幅させる装置となっているとしたら(sessionではそこまでは語られていませんでした)、「信じるも信じないもあなた次第です」なんて台詞も罪深いものかもしれません。

sessionでは陰謀論を信じてしまう人について掘り下げていましたが、日和見陰謀論ウォッチャーとして気になるところといえばその歴史でしょうか。

  • インターネット誕生
  • SNS誕生
  • トランプ政権誕生

あたりが陰謀論的コンテンツの変遷に影響を与えていると思っているのですが(個人の主観です)、最後のがかなり異質ですよね。このあたりをアカデミックに研究してる人いたらお話聞いてみたいですね。

『陰謀リテラシー』の意識高い人でいたい

インターネットがやってきてネットサーフィン(死語?)というものをするようになってから、陰謀論が大好きになりました。よからぬ事を語り合うネット掲示板(死語?)を夜な夜なROMってた(死語?)のも、今となっては良い思い出です。
今でもWikipediaなんかはついつい読み耽ってしまいますよね。

ただ、最近話題になる陰謀論は、いろんなメディアで語られすぎていたり、あろうことか選挙の盛り上がりと共に語られたりもしていて、これはもうワタシの知ってる陰謀論の楽しみ方はできない状態です。そんなに大々的にみんなが語り出したら、それはもう陰謀でも何でもなくて、ただのホラではないか、と。
「そんなの検証したらいくらでも間違いがでてくる」みたいなコメントを真面目に話し、真面目に雑誌などに掲載し、なんとあろうことか真面目に検証していたりもして。もうね、検証なんてしてはいけない。答えを出してはいけないものだと思うのです。本当に興醒めも良いところです。
陰謀論ファンとしては「信じるも信じないものあなた次第です」と言われて、ニヤニヤ気持ち悪い顔で笑いながら心の中だけで「信じねーよ。でも話は全部聞くけど」と思ってたいだけなのです。
「よっしゃオレはその説を信じるぜ!」というレベルの話ではないのですよ。

みたいなことを思いながら、さらに一歩引いたところから生暖かい目で現代の肥大化した陰謀論(ホラ)をウォッチする、というのが現代の『陰謀リテラシー』意識の高い人の所作でありましょうか。そんな人にワタシはなりたい。

課金ゲームの未来

基本無料のスマホゲームは未だにチョコチョコやってます。常に何かしら新しいタイトルが出てるし、昔据置機で遊んだものの新作があったりもするし、良い時代になったものだなあと思います。
さらに何がすごいかというと、やっぱり「基本無料、ゲーム内通過を得るために課金」という仕組みです。これ、皆さん一体どのタイミングで課金しているのでしょうか?
課金しなくてもある程度ガチャ引けるし、ストーリーを進めることもできます。
ガチャで低確率で排出されるキャラをゲットするために課金というのは何となくわかりますが、逆にそれくらいしか課金タイミングなくない?と思うのです。数年前はそうでもなかった気がするのですが…。
ガチャに課金するのってとてもとても一部の人たちだと思うのです。ただそれは、ワタクシが超ライト層の、もうあんまりゲームプレイに情熱を持てないオッサンだからかもしれませんが。

もうたぶん10年以上前だと思いますが、「これからのSNS時代のコンテンツ消費について、いかなるかたちのマネタイズを狙っていくか」みたいな話が一部界隈で話題になってたような気がします。
個人的には「最初の一章だけ無料、二章以降エンディングまでは有料」というモデルはそもそも流行らないとは思いました。それは思った通りでした。
ただ、「基本無料、他人と差をつけたい人はお金払って下さい」というモデルも、流行こそしてもすぐ廃れると思ってましたが、こちらはそうでもなかったですね。なんというか、ゲームにおいて他人と争いたい人がワタシが思ってるよりもずっと多かったんですね。
しかし、その傾向も明らかに鈍化しているというか、行き詰まっているというか。ガチャにしか課金要素ないということは、もうこのモデルには伸び代なさそうだなと思います。

いつの時代も次の消費形態について考えを巡らせ、新しい形のマネタイズを考えてる人がいることと思います。今はサブスクリプション隆盛なのは周知のとおりですが、ゲームってサブスク流行るかしら。
例えば10年後、ゲームに限らず、ワタシは一体どのような形でコンテンツに対してお金を払っているのでしょうか。
そもそも10年後は流石にゲームはやってないかな…とかは10年前も思った気がしますね。

とかツラツラ考えながらドラゴンクエストタクトをやってました。ビアンカゲットしたぜ!

書くことないから今週のお題から話を捻り出してみる日

今週のお題「鬼」

昨年末、近所のスーパーに行ったら、鬼滅のキャラと共に『全集中で大掃除』的な文字が描かれたのぼりが立っていました。
その少し前には、コンビニで『鬼滅の刃×コンビニスイーツ』的なコラボ商品が出てるということで家族でコンビニ巡りをしましたが、行ったお店ではみな売り切れてて、ついぞ購入することはできませんでした。
そんな大人気&大正義『鬼滅の刃』がコンテンツ商品として最も本領発揮するイベント、それが『節分』だと思っていたのですが、はてどうしたことでしょう、あんまり聞きませんね。お菓子メーカーがこぞってコラボするものとばかり思ってました。
『"節分×鬼滅"豆』とか『全集中・豆まき』とか、けっこういけてるんじゃない?(センス…)

なにせ『鬼』ですからね。毎年見かけるあのお馴染みの鬼のお面ですが、今年は鬼滅の刃にでてきた鬼のお面バージョンがでてきて、全種類集めるために豆いっぱい買って買い占めて転売ヤーが高値で売って社会問題になるところまで想像してましたけど、全くの杞憂でした。転売狙わなくてよかった。
やっぱり鬼って悪役の代名詞ですからね。今をトキメク『鬼滅の刃』繋がりとは言え、あんまりフィーチャーされないのでしょうか。『鬼滅の刃』にでてくる鬼の造形、結構好きなんだけどな…。

あんまり関係ない話ですが、小学生の頃に仮面ライダーごっことかゴレンジャーごっことかガンダムごっことかする時に、毎回決まって悪役をやりたがる友人がいました。節分の豆まきの時も鬼役をしてた気がします。今、鬼滅の刃ごっこをしたら、鬼役を望んでやりそうなやつです。しかも鬼舞辻無惨ではなくて、モブ寄りの鬼の方を。
なぜ正義の味方をやりたがらないのか、当時は全く理解できなかったけど、いまならなんとなく分かります。
今思えばその友人、センスの塊みたいなやつだったんだなあと。

ネットの世界のコミュニケーション

ブログとかポッドキャストとかYouTubeとか、大きな括りではSNSという中に入るのでしょうけど、いうても一方通行ですよね。視聴者が配信者に対して感想伝えたりするところのハードルが低く設計されていますが、あくまでも配信者の配信があってこそだし、その気になれば配信者は視聴者の反応を無視することもできます。(人間なかなかそうはいかないからいろんなトラブルは起きてますが…)
これがTwitterになると少しは双方向感出てきますし、近々話題のclubhouseなんかもきっとポッドキャストとはまた違って、双方向ありきだと感じます。(まだやってないので偉そうなことは語れないけど)

ワタシレベルのコミュ障になると、「SNSで双方向」と「対面でコミュニケーション」との違いが理解できません。ていうかたぶん一緒なんだろうな。当たり前ですけど、ネットのコミュニケーションもリアルタイム性は求められますもんね。
ただ、誰とは言わないけど、リアルでの「コミュニケーション疲れ」みたいなものから遠ざかりたくてネットの世界が好きになった人には向かないなあと思います。

諸行無常を感じたこと

今日昼に、車を運転している時にちょっとしたひらめきがあって、「あ、これブログに書こう」と思ったんですけど、夜になってさてブログでも書くか、となったときには何をひらめいたのだったか、全く思い出せませんでした。何かをひらめいたということは強烈に印象に残っているのに。
別に今回に限らずよくある話で、「忘れるくらいだから大したことなかったんだろうなあ」と思うだけです。次同じことあったら忘れないようにしたいな、くらいでしょうか。メモ取る習慣もないし。

ちょっと想像を膨らませて、例えば人生の最後に、「さてではこれから死のうか」となった時に、「今までいろんなことがあったけど具体的に何があったか全く思い出せない。生きたということは強烈に印象に残っているのに」という状況に似ている気がしました。 未経験だし経験者の話も聞けないので本当に似てるのかは分かりません。「思い出せないから大したことなかったんだろうなあ」とか思っちゃうのでしょうか。ただ、次があるかどうか分からないですからねえ。諸行無常を感じますね。
いつかくるその時に備えて日記とかブログとか書いているのかもしれません。

機密情報が漏洩したニュースに触れて

組織内部のローカルルールで、明らかに冗長で無駄で意味がないと思われるものを稀に見かけます。そのように感じたものは、だいたい誰かが何かしらやらかしたためにできたものだったりして、その背景を知ってしまうとなかなか面と向かって「無駄じゃん」とは言えないものです。ルール作る方も十分理解していて、なんとか守れるギリのラインを狙ってたりして、当時を知らなくても苦労の跡がうかがえたり。
しかし、頑張って仕組みを作っても、リテラシーなかったり明らかな悪意があったりすると当然事故は起こり得ます。そうなるともう、ガチガチのシステムと厳格なルールで縛るしかなくなるのかな。でもそれって何も良いことはなくて、効率もモチベーションも下がるばかり。
理想は、リテラシー教育を充実させて、組織への帰属意識を持ってもらい、適当な報酬を与えて、というところで要は満足感を感じて仕事してもらうのが1番の再発防止のでしょうけどね。でもそんなの、一回でもエラーが起こるともう綺麗事でしかなくなりますよね。

SMBCソースコード流出の件、ソフトウェア業界のことは全くわかりませんが、なかなか恐ろしい内容ですね。機密保持結んでなかったのかな。契約内容が気になりますね。まあ、結んでいたところで、もし明確な悪意があったら意味なさないでしょうけど。
ともあれ、これから再発防止の仕組みを構築する人には同情を禁じ得ません。なかなかヘビーだと思います。自分が今後その立場にならないことを祈るのみ。