『だよねー』の裏側

「議員が公の場で差別発言なんてありえないよね」
『だよねー』
「役人が利害が一致する民間企業のトップから接待受けるなんてよくないよね」
『だよねー』

などなど、『だよねー』以外の返しが思いつかないくらいです。しかし、それで終わってしまったら、ワイドショーのコメンテーターが言ってたから自分もそう思う、みたいな感じになってしまいます。思考停止ですね。これは良くない。
かと言って先入観なしにニュースに触れる機会もあんまり無いですね。テレビを見たらコメンテーターが何か言ってるし、ネットを見たら顔なき人々のコメントで溢れているし。

まわりに流されないようになるためには、とにかく自分で考えるしかないと思います。
しかし考えると言ったって何を考えるのでしょうか。「この人はなぜそんなことを言っちゃったのだろう?」とか、「なんで偉い人は皆んなそんなことをしちゃうの?」とか、自分じゃない人の「なぜ?」を考えても良いのですが、しかしそれってともすれば「だから自分は大丈夫なんだ。自分はそんな悪い人ではないんだ」となって、自分が安心するための理屈になってしまいがちです。これも悪くはないものの、やはり思考停止な印象は拭えないわけです。

やっぱり考えないといけないことは、自分のなかの「なぜ?」だと思います。
『なぜ自分は差別はダメだと思っているのか』
とか、
『なぜ自分は接待はダメだと思っているのか』
みたいに、自分の感情の起源を遡っていくことこそ、自分を守りながらも他人に流されないようにする秘訣ではないか、と思い至りました。ついさっきです。
『だよねー』と思ったり言ったりしつつ、心の中では「なんで『だよねー』て言っちゃったのだろう」と考え続けることが大事です。何も考えずに流れに身を任せる行為は、いろいろ考えた後の結果としてでありたいと思います。

願わくば、そのような自分の感情の起源を遡る過程を言語化して、ブログでもなんでも良いから書き残しておきたいくらいです。本人にとってのみ、めちゃくちゃ価値ある文章となることでしょう。ひょっとしたらブログを書き続ける意味ってこの辺にあるのかもしれません。
しかし意外と難しいんですよね、思ったこと考えたことの言語化。向き不向きがあるとしたらワタシは確実に不向きであることでしょう。

どういうわけだかなんだか大したことない割に真面目な話をしてしまいました。