コロナ後のイベントは動画配信系にシフトしていくことを望む

コロナ禍でいろんなイベントが動画配信になってますね。たいへん良きことです。もう全部これで良いのではないでしょうか。たとえば家族でとある演奏会の動画を視聴したとして、

  • 演奏中でも会話できる
  • 演奏中でもトイレにいける
  • 演奏中でもちょっと疲れたらおもむろに立ち上がって体操できる
  • ちょっとつらいな、と思ったらとばせる(配信形態によるが)
  • この前はつらかったけど今日はきっと大丈夫、と思ったら再度視聴できる(配信形態によるが)

などなど、良いことばっかり。結果として最後までしっかりと消化できる率が高くなっていて、コンテンツを提供する人される人Win-Winではないだろうか。
(ただし、間にいる人はきっと大変なのだと思います。今きっと過渡期でしょうし)

でもそれはきっとワタシが引きこもり気質を持っているからで、リアルタイム性や身体性や共有性を重視するような人やイベントには向かないのでしょうか。

おや?それってイベントと呼ばれるもの全てでは?

というところまで考えてふと思ったのが、リアルタイム性や身体性や共有性というものの概念に『同じ場所にいること』がどれくらいの割合を占めているかの問題だなということ。当たり前と言えば当たり前の話です。
ネット環境が今ほど整う前は、『同じ場所にいること』は最優先事項だったようなことも、近年は随分優先度下がりました。というか『同じ場所』の概念がドラスティックに変化してきた感じでしょうか。(お肌が触れ合うくらい近くにいないと『同じ経験』とは言えない、なんてことはもうない)

コロナ禍でこの概念の変化がさらに加速されてるわけで、行き着くところまで行ってしまうと思われます。そうすると今後の注目点としては、『コロナ後この価値観はどうなる?着地点はどこか?』『それでもお肌が触れ合うくらい同じ距離にいるべき場面とは何か?』というところでしょうか。

個人的には、きっともうコロナ前のようには戻らないと思っていますが、これには多分にワタシの希望的観測が入っています。ヒトゴミキライ…。
なのでひょっとしたら、コロナなんてなかったかのように元の状態に戻るというのも考えられるのでしょうか。流石にないのかな…。

ということで、コロナ後の世界がどのような価値観のもと作られていくのか、なんて考えるのも長期休暇の醍醐味と言えないこともない…と思う気もする。なんかそんな小説ありそうだな。
直接的には関係ないかもだけど、価値観を強制的に変えざるを得ないパターンももちろんあるわけで、リテラシー教育とか大変そうですよね。

家族で演奏会の動画を視聴したので、その感想を書こうと思ったけどわざとちょっと脱線しました。