トップダウンとボトムアップと

トップダウンで半ば無理筋な目標がドカンと示され、下々のものとしてはなんだかんだと文句を言いながらも示された目標は達成するべく頑張る。ワタシは、社会人となってしばらくはまさにそのような環境で過ごしていました。無理な目標を部下に示すことがあるべき形であると思っていそうな上司の文句を言いながら、無理でもやるしかないと思いながら、「えらい人は何も分かってないな」なんて思いながら、とはいえ頑張っちゃうわけです。下々の者のモチベーションのウラにあるのは、偉い人への反抗心です。それは、見方を変えると忠誠心とも言えると思います。

最近の目標の決め方はガラリと変わっていて、どちらかと言うとボトムアップ重視な感じ。ワタシの職場だけでなく社会全体の流れなのかなと思います。今どき忠誠心なんて流行らないもんね。
下々の者が話し合って目標を決めるのです。自分達で決めた目標に向かって業務邁進なわけですが、厳し目の目標を掲げて頑張るが仮に達成できなくても良い、高い目標を掲げるが重視するのはそのプロセスである、というのがキモとなるのでしょうか。

トップダウンなやり方とボトムアップなやり方と、どっちが良いかと言うと、時代の流れ方としてはやはりボトムアップなのかな。トップダウンというのはどうしても権威主義的なイメージになってしまうし、権力構造に伴う忖度とかも出てくるし、最終的には根性論になってしまうことも多いし、それでも周囲の環境が成長著しい場合は有効にはたらく場合も多いですが、今どきのように停滞していたりニッチを狙わざるを得ない環境ではマイナス面の方が多いのでしょう。

さて、トップダウンな環境でやってきた人が、マネージャーになった途端にボトムアップなやり方を求められる、というのはよくあるパターンでしょうか?
マネージャーと言ったところで、トップかボトムかと言うとボトムな場合、今までは「これやれよ」と命令されていたものが、「なにやるかも考えなさい」と言われることになります。最初は結構戸惑うものです。はっきり言って、下々の者としては、ダメ元という開き直りができる分、トップダウンのほうが気が楽な部分もあります。
このあたり考えると、自分が典型的な指示待ち人間であること(そして実は精神論を重要視していること)がよく分かってきます。なんか、昔の人間だなあと思っちゃいます。ダメですねえ。
こういうときも、うむ、何か本でも読もうかしら。

マネジメントスキルに対するモチベーション

プレイヤーからマネージャーへのジョブチェンジを経験する人は結構居られるのでしょうか?
マネジメントスキルに関する話題はいつも事欠かないので、それなりの市場というか要求があるのでしょう。なんならマネージャー志向がなくても知識としては必要だよと言わんばかりです。

マネージャーになるからにはその分野の基本的な素養がなければならない、そうでないと部下にしっかり的確なアドバイスができないではないか。というように思っていましたが、マネージャーを数年やってみると、部下に的確なアドバイスができるか否かはその分野の基本的な素養があるかどうかはあんまり関係ない、マネジメントスキルは専門的なスキルと比べると、もっと汎用的である、ということでした。
エンジニアになって専門分野のことをバリバリやってた時は全く気付きませんでしたが、気付かなかったから良かったと思うこともあって、なかなか複雑な気分です。専門分野をバリバリやらなくなった副作用も色んなところに出てきた気もしています。

そういえば、大企業の研究職のマネージャーから営業職のマネージャーにジョブチェンジした人を知っていますが、「マネージャーになっただけで面白くなくなったのに営業になってさらに面白くなくなった」と言っていました。当然ですが向き不向きですね。その知り合いはいつのまにか大学職員になっていました。大企業でエンジニア出身で営業のマネージャーになるというのは典型的な出世コースである場合が多いと思いますが、それくらい有能だからこそ自分のキャリアパスを思い通りのものに修正していけるのかなと、やっぱりすごいやつはすごいですね。見習わねばなりません。

マネジメントのことを勉強する機会が増えてきましたが、なかなか夢中になれないというか、合わない気がすると言うか…。どうしても自分が頭でっかちになっていくように感じて、そのまま突き進もうという気になれません。
こう言う時には、そうですね、何か本でも読もんでみましょうかね。

新機軸

何に困るかって、「時間がない」に尽きると思います。お金も場所もないのですが、それより時間です。時間さえあれば何とでもなりそうな気がします。
と、いうことを、急遽休日出勤となったはずなのに出社直前でやっぱり行かなくて良いとなったのでUターンして帰る途中のコンビニの駐車場でああなんだか無駄な時間を過ごしたなと思いながら書いています。
この感覚…新機軸だ!

外に向かうものと内に向かうものと

ブログを書くということの動機付けとして、

  • 誰かに何かを発信したい(外向き)
  • 未来の自分にとっての財産になる(内向き)

の2つがあるとすると、ワタシとしては圧倒的に後者の意味合いが強いと思っています。
もちろん前者の要素もありますが(だから誰でも見ることができる設定にしている)、だからといって積極的にプロモーションする気もないのでたかが知れているのです。

ちょっと色々思い出したり考えたりしてみて得られた結論なのですが、この「内向き要素」と「外向き要素」のバランスについては、ブログ以外のもの、趣味とか仕事とかについてもほとんど同じでした。同じ人格だから当然と言えば当然かもしれません。今の自分の中のバランスはとても心地よいとは思っていて「変えなきゃ」みたいな想いもあんまりないつもりです。

ただし、ふと思うことがあるのは、もっと自分から今以上に積極的に発信して(外向き要素を強めにして)、周囲からのフィードバックを多く得ていった方が良いのではないか、ということです。端的に言うと、チヤホヤされたい、ということです。よくよく思い出しますと、ブログを始めた直後は、この「外向き要素」が大きかったような気もします。
個人的には、「外向き」の割合(というか欲求)が増えていくことは「老い」であると捉えているところがあります。一人で自分の中だけで完結して自己満足だけで終わるものの中にこそ、オリジナリティがある。真に価値あるものは、自分以外は不可侵である。根っこのところにはこのような考えがあるわけです。

で、さらに最近思うのは、上に書いたように優劣をつけて考えることって、なんかいろいろ勿体ないなということです。もっと言えば、他人に不可侵なものを今くらい持ったままで、もっと外向き発信要素を増やせるのかも、ということです。

なんかだんだんと抽象的な話になっていってて、特に結論なく書いているので、自分でもよくわからなくなってきました。分からないなりにこういったことを文章化する機会が増えたのは、ブログ始めて良かったことのかなり上位に入りますね。

マクロ感染症対策状況「見える化」できたら良いのにな

もし、人との接触を完全に断ち、誰にも会わずにいたら、絶対に感染することはないわけです。
人と接触する場合でも、必要な感染対策をとっていれば、感染するリスクをグッと下げることができるようです。
必要な感染対策とは何かというと、手洗い、手指消毒、マスク、ディスタンシング、…とかなんでしょうか。一口に「必要な感染対策」と言ってもきっとグラデーションはあるはずです。
マクロに見て、「必要な感染対策度」を横軸に、「感染拡大速度」を縦軸にそれぞれとったら、一次関数か二次関数か反比例かみたいな曲線が引けて、今この社会が引かれた曲線のどこにいるかがわかったら良いですね。最強の「見える化」ではないでしょうか。人々の意識も変わりやすい気がします。

珍しくニュース番組などを見ています。変異種がすごいとか新規感染者数がすごいとか医療体制が大変だとか飲食業が大変だとか、アナウンサーの方はまあ声高に現状の有様を伝えようとしています。
しかし、感染症を抑え込んでいくために人々がとるべき行動を示す、というコーナーは最後までありませんでした。きっと世の中の人々はそういったものは当然わかっているという認識でしょうか。感染症予防のためにとるべき日々の行動というものは、目新しい情報はないようですから、まあ何をいまさらって感じ?
しかし、ここまで感染が拡大してしまった要因として、日々の必要な感染症対策度が下がってきているからなのでは?と感じてしまうわけです。ニュース番組の内容を見ていると、そのことからあえて目を逸らしているのではないか、とさえ感じることがあります。
このあたり目を逸らさず、真正面から真摯に、かつ定量的に語ってくれるメディアがあれば良いのになと思うところです。要は「見える化」して欲しい。
「変異種すごいから前はこれくらいの対策で良かったけど今はここまでやらなきゃダメだよ」とか「今、この辺まで緩んじゃったけど、頑張ってこの辺まで挽回しよう」みたいな。

ワタシのアンテナが低いだけで既にあるのかな。それか、どうやっても恣意的な印象を与えるからだれもやりたがらないのか…。

  • 感染症対策で授業はオンラインにしよう
  • と思ったけど準備できてないから対面授業継続しよう

だと、感染症対策が優先なのか休校しないことが優先なのかわからないですね。一貫性がなく伝わるメッセージとしてはイマイチ良くないのではと思いつつ、現実問題としてどうなってもどこかに無理が出てくるのは一年前の経験から明らかなので、大きな声で文句を言う気にもならないと言う行き詰まり感。

大事な大事なヒューマンインタフェース

パソコンにしろスマホにしろ、「使いにくいな」「なんか惜しいな」と思うアプリに出くわすことは良くあります。だいたいの場合はインタフェースの作り込みがイマイチです。本当に優れたインタフェースに出会うことの方が稀ではないかと思うほどです。まあ、大した数を触っていないし、大した知見を持っているわけでもないので、ただオッサンがわがままを言ってるだけなのかもしれません。

とはいえ、インタフェースが良いと思えるものに出会うとなんだかテンションが上がるのも事実です。『UX(User eXperience)』というのは、概念を知っただけでは「ふうん…」くらいの感想しか抱けませんでしたが、本当に良いものに出会うと、『UX』の概念だけでも知っておいて良かったなと思えます。

お仕事で、大衆向けのものでは全然ない、ホントのホントにローカルでしか使わないような(でも一応不特定多数に使ってもらうことを前提としている)インタフェースですが、画面を設計した経験はあるし、画面にあわせて機能を実装したこともあります。作るということをやってみて体感したのもやはり、インタフェースの重要さです。不特定多数に使ってもらうことを前提としている場合、まずは使う人の立場に立って画面を作って、その後でいろんな機能を作り込んでいくのですが(あくまでもワタシの経験です)、たいていの場合、画面仕様が優れていると機能の実装もやりやすかったものです。充実した画面仕様書さえあれば、機能の仕様書なんてなくても実装できてしまう場合もあります。もちろん、分野によってはばらつきあるでしょうけど、所謂ヒューマンインタフェースにはそれくらい重きをおくべきである、とは承知しておかなくてはなりません。

ちょっとだけ話それますが、何をするにもオープンソース隆盛でいろんなことがフリーでできてしまう昨今のソフトウェア界隈において、安くはないお金を払ってソフトウェアパッケージを買う意義というのは、半分以上はUIを買っているのではないかと思っています。
逆にいうと、個人でしか使わないような、UIなんて別に気にしない場合は、多少は不便でも思い立ったらすぐ実装できてしまう世の中なわけで、ワタシのようなタイプにはたいへんありがたい方向に発展してくれたものです。(何様…)

昔は(今もそうですが)本当に無知で、人間は機械に合わせるべきだ、くらいに思っていて、モノづくりにおいても「ヒューマンインタフェース」については二の次三の次と思っていました。見た目よりも裏でどれだけ高尚なアルゴリズムが走っているかの方が大事だと思っていました。もちろん全て大事ですが、モノづくりの中では一番手を抜いてはいけないのがヒューマンインタフェースではなかろうか、と思っています。
大学生の時に、『人間工学』とか『マンマシンインタフェース』などの講義を履修していましたが、まったく重要視していませんでした。「こんなん勉強してもしょうがなくね?」なんて思っていました。本当に、自分のセンスの無さが悔やまれます。