『麒麟がくる』を見終わった

一週間遅れて最終回の視聴を終えました。素晴らしい大河ドラマでしたね。終わってみれば、今回のような光秀像が過去無かったのが不思議でなりません。それくらい新しい上に説得力も持っていたと思います。

最終回は、光秀まわりの人々の複雑な心模様を描いておいてからの圧巻の『本能寺の変』に突入。信長の振る舞いがもう完全に信長でした。光秀の振る舞いはもう完全に『信念の人』でした。信長に天下を取らせようと夢見たところからの、本能寺の変に至る苦悩を伴う心の移り変わりを、見事に表現していたと思います。個人的には山﨑の戦いで秀吉に討たれるところまで込みで描いて欲しかったと思うところはありますが、終わってみればどっちでも良かったかなと思えます。一番描きたかったのは本能寺の変でしょうし。

最終回のラストでは本能寺の変の3年後が描かれていました。光秀が実は生きていたということに含みを持たせたうえでの『完』でした。賛否両論でしょうが、光秀生存説というのは割と有名な説だし、あくまでも「かもしれない」で含みを持たせた終わり方で、これはこれで良かったですね。

さて、主人公が討たれてから3年後の市井を描くこと自体が、大河ドラマでは珍しいのではないでしょうか。その3年後の一幕として、とある人物が『秀吉様が関白になられたそうな』的な台詞を言います。当たり前ですが、光秀と信長亡き後も世の中は動いているわけです。ワタクシ今回、ここのところで結構なカタルシスを感じました。
今まで物語の中心にいた光秀と信長がいなくなって、お話としてはそこで終わって良いはずです。しかし中心人物がいなくても時間の流れは変わるわけではなく、日々刻々と物語は進行しているのですよね。
であれば、今ここにワタシが存在する意味は一体なんだ?
まで考えたわけでは流石にありませんが、人の儚さみたいなものは十分に感じることができるラストでした。

いやあ、本当に良かったですね。