抜歯

もしタイムマシンに乗って過去に行き、過去の自分に会って何か言えるとしたら何を言うか。これはもう迷わず「歯はしっかりと磨きなさい」に限ります。
「そんなん言われなくてもちゃんと磨いてるし」と返ってくるのはわかっていますが、そんなの余裕で論破してやります。過去の自分にコンコンと説教してやりたいくらいです。

親知らずを抜歯しました。抜歯自体は、麻酔が効いたのか医師の腕が良かったのか、全く痛みはありませんでした。
しかし、ここに至るまでの経緯、つまりワタシの半生を振り返ると、ワタシのココロに後悔という名の鈍い痛みが走るのです。(語彙力…)

せめてこれからは、より一層デンタルケアに力を入れていきたいと思いました。(4年ぶり5回目)

ブログのバックアップ容量から

blogsyncでゲットしたこのブログの4月のバックアップの容量は80KBです。「私の戦闘力は53万です」みたいに言ってみました。
このブログは昨今の流行りの真逆をいくべく、ほぼほぼテキストで構成されていますから、バックアップ容量と言ってもしれてますね。

一方で、ワタシがこのブログを見たときに自ずと現れるAdSense広告ですが、たぶんひとつにつき数百KB程度っぽいです。(という数値を調べるのに無茶苦茶苦労しました。苦労して数値出したんですがあんまり自信はないです。まあ、広告だからいろんなタイプがあるから、きっともっと大きかったり小さかったりするはずだ)

一広告の容量が、一個人の1ヶ月分のブログ更新の容量を遥かに凌駕しています。ネットの世界のトラフィックで考えると、このブログを見た人は、広告をダウンロードしただけみたいなものです。ワタシの書いたテキストはただのショボいオマケです。

このAdSense広告ですが、いったいどれほどの人がクリックしているのでしょうか。そして実際に商品の購入にまで至る人はどれくらいいらっしゃるのでしょうか。

そう考えると、ネットの世界のトラフィックには大量の無駄がありそうですよね。もちろん、数打ちゃ当たる作戦を決行しているわけだから、ビジネス的には無駄なんて言ったら怒られちゃいます。しっかりとした効率のはなしです。ただ、全体のエネルギーで考えたら、たとえば本ブログを毎日読みたい人(そんなやつ居ねえだろう、というヤジは無視)は、本文テキストの数百倍の通信(そのほとんどが本文テキストに無関係)を行なっているということで、この世の有限リソースを無駄使いしていると言っても良いでしょう。(かなり暴論です)

一方、なぜワタシが無料でこのようなブログ発信ができているかというと、ワタシの発信とともに広告もトラフィックにのって誰かの元に届くからです(そんなの全然大した数ではないだろう、というヤジも無視)。ですので、ワタシ自身がこの「通信の無駄使い」に大いに加担していることになります。(かなり暴論です)

さっきから何を当然のことをウダウダ書いてんのかって話ですが、特に言いたいことがある訳ではなく、たまたまブログバックアップのデータ容量を見てみたからの連想を書いてみました。あんまり面白くはないですね。(オマエはいつも面白くねえよ、というヤジも無視)

言い訳ですが、当然のことを敢えてテキストにしてみるという行為もなかなか気付きが多いです。大事なことだなと思います。

コンテンツビジネスって

モノやヒトを右から左に移動させると、カネが左から右に移動する。その繰り返しのなかで、たまにはモノやヒトに付加価値を付与して移動するカネの量(価値)を大きくする。このようにしてモノとヒトとカネを循環させつつ増やしていく。たいへん分かりやすい話だと思います。
「モノ」のなかには形に残らないものもあって、例えば映画や小説などいわゆるコンテンツと言われているものなども、我々カネと交換しています。分かりやすい。

コンテンツというやつは、形に残らず感性に訴えかける部分が大きいが故に「集客力」という意味では大きな可能性が秘められています。多くの人を動員できる力があるのです。つまり、多くの人に影響を与えやすいものとなります。多くの人に影響を与えてモノを売りたい人にとっては、「集客力」自体には大きな価値があります。あの映画であの俳優が乗ってた車欲しい、みたいなことですね。この場合、車を売るために映画を作るという側面があることになります。べつに車が売れなくても、その車に対する印象が良くなったらそれだけで成功と捉えることもできます。民放テレビ局が成り立っている所以ですね。
そして、「集客力」を優先するのであれば、コンテンツ自体は無料にすれば良い、というのは至極真っ当な考え方なのでしょう。誰も民放テレビ局にコンテンツ料払ってないもんね。
実はワタクシこの辺りから理解が追いつかなくなってたりします。なんだか分かりにくい。ウダウダ書いてきたけど間違ってないかな。
なぜ分かりにくいか、それは、冒頭で述べた「モノ、ヒト」と「カネ」の交換というモデルにのっかってこない気がするからです。別に損してるわけではないのですが、なんだか騙されてる感覚というか。

しかし、今のこの世の中、単純に「良いものを作って適正価格で売る」だけでは成り立っていかないということも分かってはおります。いかに効率よく集客するかのノウハウが持て囃される時代です。
ということで、コンテンツビジネスというやつは、趣も深いし業も深いのでしょうね。義務教育でもっと時間をかけて教えても良いんじゃないかと思うほどです。

歯医者に行った

自分の性格については、よく言えば楽観的、悪く捉えれば無責任だと思っています。いずれにしろ、悲観的な考えに心の奥まで支配されることは極めて稀です。
そんな楽観主義的無責任野郎なワタシでさえも絶望を味わう場所、それは歯医者です。どんなにコジャレた待合室があっても、LEDライトを目いっぱいたいて明るい診察室であっても、ポップでオシャンな壁紙であっても、そこにいる歯科医師もしくは歯科衛生士の口から紡ぎ出される言葉には絶望しか感じません。
当然のことですが歯科医師もしくは歯科衛生士もしくは歯科医院が悪いわけではありません。このような環境に陥る要因はワタシの内面にあります。過去の自分の行いを振り返り、ワタシ自身のフィジカルそしてメンタルを見つめ直すべきであると考えます。

何を言いたいかというと、これからはもっと歯磨きを頑張りたいということです。

オリンピックとか緊急事態宣言とかについて

個人的には、オリンピックに関しては、さほど関心がありません。平時であれば、これでもかと盛り上がりを演出するメディアを横目でチラ見はするものの、観戦したり応援したりというのはテレビ越しでもほとんどしません。なので今年も、コロナ禍なんだから開催を控えたら良いのに、くらいには思うものの、基本的なスタンスとしては無関心です。

そんなワタクシが世間の雰囲気というか空気というか、テレビやネットから得られた情報から感じることです。
どうやら現状の日本では、『政府としては何とかして開催したい。国民としては頼むから開催中止して欲しい』という対立の構図になっているようです。普通逆じゃない?と思うところです。何だったら、『国民が「オリンピック開催するためにコロナ対策頑張ろう」と盛り上がっているところに、政府が冷静な判断を下す』くらいの方があるべきかたちのような気がしています。現状そのようになっていない要因としては、

などが考えられます。それぞれ詳しく掘り下げて書くのは面倒なのでここまでですが、いずれであったにしろなんだが残念な印象を持ちます。

そういえば『緊急事態宣言』なんかも似たような印象を持っています。普通は国民の側は終始「やめてくれよ」だと思うのですが、どうやら日本国民は「はやく発出しろよ」みたいです。なぜそうなるのかの要因も、上に箇条で書いたものと同じことが言えそうだと思っています。こちらは、お願いベースとはいえ『権力による私権の制限』なワケですから、現状には若干の危うさを感じるところです。

だからなに、というのは特にありません。
オリンピックにしろ緊急事態宣言にしろ、「コロナに立ち向かう」という意味においては、現状うまく行っているとは到底言い難く、なぜこのようになってしまったかについては考えておいた方が良いのでは?と思いました。

ワタシは無関心なままなので考えるかどうかは分かりませんが。

歯が痛い

歯が痛いため、「歯が痛い」以外のことを考えることができません。昨日までは頭は結構冴えていました。もし歯が痛くなければ、ひょっとしたら今日が人生のターニングポイントであり、人生を大成させるための第一歩を踏み出せる日だったかもしれません。
大成するチャンスは惜しげもなく差し出したのですから、この歯の痛みが無くなることを祈るばかりです。

毎回「とりあえずやってみる」までは辿り着くけどなあ…というはなし

普段どれくらい本を読んでいるかというと、多いときで一週間に一冊くらい、少ないときでも一ヶ月に一冊くらいです。小説が多くて、実用書系は稀に流行り物を読むかな。世の中の平均がどんなものかは果たしてよくわかりませんが、ワタシの周囲に範囲を狭めると、どうやらワタシは結構読んでいる方のようです。

そんなワタシが満を持して日記ブログ的な何かを始めてみて思ったのは、圧倒的な文章力の無さでした。大して長くもない文章なのに、どうしてこんなにうまく書けないのでしょうか。
よく、『良い文章を書きたければ、たくさん本を読みなさい』と言われますが、正確には、『良い文章を書きたければ、まずは書いてみて自分の実力を知ってから、たくさん本を読みなさい』ではないかと思います。
やっぱり「気付き」の多さでいうと体験に勝るものはありません。むかし、一人で根暗に日記を書いていた時も実は同じこと思いましたが、忘れていました。忘れていて、「きっと自分は人より文章力ある方だ」と思い込んでいました。なんだかもったいない気持ちですね。もっとはやくブログやってたら良かったかも、と思うほどです。

似たような話。ちょっと前に『ゼロから学ぶディープラーニング』を読みました。ディープラーニングの概要はある程度は学んで知ってたつもりですが、どれだけ難しい数学的なバックグラウンドを知ってたとしても、実際に実装して得られる「気付き」は、事前にインプットされていた知識を凌駕するものだったりします。事前にインプットされていた知識がショボすぎていた可能性も否定できないので、説得力に欠けますが。まあ、ご愛嬌。

気になったものはとりあえずやってみようは大事なことです。なんだって同じことが言えますよね。何を当たり前のことを言ってんの?て感じでしょうか。

で、我ながらダメだなと思うのは、だからと言って向上心を持つに至らないことです。
ブログ書いて「文章下手だな」と思ったところで、そこで終わってしまうのですよね。「よし、文章力をつけよう」までなりません。
これも何でも同じなのですが、「ちょっとでも興味もったものはとりあえずやってみる」は結構得意な気がしています。でもそこまでで終わってしまうところに、自分の限界というか、底の浅さみたいなものを感じてしまうのです。『色々知ってはいるけれど、プロフェッショナルではない』という状態になりがちな半生でした。そうではなくて、『好きこそ物の上手なれ』でいきたいんですよね。今からでも遅くないから何とかしたいなあと思う所存です。いつものように決意だけは立派に書いておきます。