ビジネスってなによ

Twitterという大草原を優雅に散歩していると、いつのまにか「ビジネス」なるワードが乱舞する場所に迷い込むことがあります。
いつでもどこでも、新しいプラットフォームなどができるたびに、そこに発生する需要を敏感に拾い上げて適切なサービスを提供し、「お金を移動させよう、そして自分の周りにお金を集めよう」という人たちが現れるもののようです。

自分の欲求と他人の欲求があるとして、他人の欲求のために自分の身体と頭のリソースを割くというモチベーションはワタシにはありません。なのでたぶん、Twitterで乱舞ってるタイプの「ビジネス」には向いていないと思います。

しかしTwitterでワードとして飛び交ってる「ビジネス」とはどのようなものなのでしょうか。やっぱりアフィリエイトとか系なのでしょうか。
「安心感」とか「満足感」を得られるようなモノやサービスを提供しないと対価としてのお金は流れてこないはずなので、そう考えると基本文章で勝負しないといけないTwitterとかブログなどは、なかなか厳しい勝負ではないかと思われるのだけど、実際のところどうなんでしょう。なんというか、「ビジネス」というワードはよく聞くしよく見るけど、はたして実態は如何なるものかってなかなか見えないですね。「ビジネスしてる」だけではなくてその中身も教えてほしいものです。

で、まあやっぱりどう考えても胡散臭い感じは拭えないわけで、どうも個人的にはあんまり信用できなくて一歩引いてしまうところがあるのです。

でで、これ、胡散臭い人たちがいるなあ、と他人事として思ってた時にふと閃いたんですが、そもそも今、「オリンピック」というスポーツイベントに乗っかる形で、ものすごい大きなビジネスの流れが生まれてるのでしょうね。構造はTwitterと一緒ではないかと思います。
ビジネスを成功させるために、国をあげて、スポーツイベントをメディアイベントにしようとしている感があります。要は、そもそも国が怪しいビジネスを展開しているのです

そういえばオリンピックの商業主義的なところは昔から大嫌いだったな、と思うのですが、その傾向はそのままTwitterにも当てはまるなあと思った日でした。

お金が欲しいわけではなく…欲しいけど

いつのころからか粗大ゴミを捨てるのにもお金がかかるようになりました。一個当たり数百円程度ですが。(捨て方にもよる)
役所に電話しないといけないし、コンビニにお金分のシールを買いに行かないといけないし、決められた日にしか回収してくれないし。
なにせいろいろ煩雑です。もうちょっとシステマティックに絶対できると思うのですが。

今日、粗大ゴミで出そうか迷っていたモノを、一念発起、ハードオフに買い取ってもらいに行きました。10年落ちの掃除機とディスプレイです。そもそもお金になるとは思ってなくて、引き取ってもらえたらラッキーくらいの気持ちで行きました。粗大ゴミでだしたら1000円弱かかってたところです。ハードオフでの結果はなんと2点で1000円で引き取り。
別に1000円が惜しいわけではありませんが、ただ、値段は同じくらいだけど符号が逆転したなと思い、そのことにそこはかとない興奮を覚えました。

『麒麟がくる』の感想追加

最終回を再視聴しました。自分としてはとても珍しいことです。「本能寺の変」の描写が今まで見たどの「本能寺の変」よりも素晴らしいと思ったので、目に焼き付けておこうではないか、と思ったのです。

本能寺の変」自体は目的通り堪能したので、それ以外の感想をメモっておこうと思いました。

結局誰が麒麟を呼んだんだ?

斉藤道三に「信長とがんばれ」と言われて、途中足利義輝とか足利義昭に仕えながらも彼らは麒麟を呼ぶ存在とはなり得ず、信長こそ世を平らかにすると信じて出世させたものの最後には袂を分つ事になり、では信長を討った光秀こそ麒麟を呼んだのかというとその後すぐに秀吉に討たれるわけで、結局麒麟は誰が呼んだの?ていうか来たの?
最後に家康に手紙書いてたし、光秀生存仄めかしエンドだったとすると、自らが麒麟となって信長を討ち、家康に平らかな世作りを託す、という意味合いなのかしら。 ただ、信長に幻滅してからの光秀は、とても麒麟を呼べそうな雰囲気ではありませんでしたよね。

この流れでの山崎の戦いが気になる

大河ドラマのラストは滅びの美学だ」という先入観を持っています。過去、最終回まで見た大河ドラマはそういうの多かったです。最近だと「真田丸」とか「西郷どん」とかですね。戦国武将を主人公にするのならなおさらそのように思います。
光秀は、信長を討ちはしたもののその時にはすでに時勢を見失っていたのか、各地の武将たちにはそっぽをむかれてしまいました。味方が少ない中、四国からソッコーで帰ってきた秀吉にあっさり討たれてその生涯を終える、というのが定説です。今回の大河ドラマではその辺りはナレーションでしか入っていませんでしたが、ここはやはり秀吉に討たれる回を最終回に持ってきても良かったのに、と思わずにはおれません。超真面目そうな細川藤孝の心変わりとか、超腹黒の秀吉と黒田官兵衛とか、帝もなんか突き放すような事言ってたし、光秀の破滅への伏線は張り巡らされていたと思います。
今回の光秀は最後秀吉に討たれる時に何を思ったのか…。ナレーションで終わらすのはもったいないですね。

史実にはないキャラが良かった

大河ドラマに限らずでしょうけど、狂言回し的な役割として、史実にはないキャラはよく出てきますよね。「麒麟がくる」では、「お駒ちゃん」「東庵先生」「伊呂波太夫」「菊丸」あたりです。この方々は、史実にはないのである意味やりたい放題です。時の将軍とお友達だったり、時の帝とお友達だったり、根回し一つでそこそこの大群を動かせたり。グイグイストーリーに絡んでくるわけですが、ご都合主義と揶揄されることもあります。しかしそんなんで冷めてたら勿体無いですよね。
今回の大河ドラマでも、やりたい放題の小気味良さを堪能させて頂きました。設定の妙と役者さんの名演あってのことですね。

大河ドラマ最終回ネタで2回目の更新でした。面白いから仕方ないね。

…ニッキューナナ?

そういえばブログを始めたのはこの一年では大きな変化だな、と思いました。「情報発信」というよりは「日記を書いて自己満足」という側面が強いので、「変化」といわれてもピンときません。


……
………
今、「日記」と変換しようとしてスマホの予測変換に「ニッキューナナ」がトップで出てきました。嫌いではないですよニッキューナナ。
でもなぜだかとてもテンションが下がり、この後に書こうと思っていた内容を書くことができなくなりました。たいへんウィットに富んだ、かつ思慮深い内容だったのですがしかたなくお蔵入りです。
ああ、自分はなんてちっぽけな存在なのでしょうか。こんなことでモチベーションが下がるなんて。
これがスランプというやつでしょうか。たぶん違うと思ってますけど。

この一年で特に何も変わらなかったけど、最終的に良い変化であれぼ良いなと思う

お題「#この1年の変化」

コロナ禍が背景にあってからのこのお題だと思います。ワタシ自身は、現在ニッポンのなかではとても平均的な家族における、とても平均的な中年オッサンだと思っています。そんなワタシが自分自身のこの一年の変化に思いを馳せてみました。結論としては「自宅以外の場所では常時マスクをするようになった。手洗いと手指消毒をこれでもかと意識するようになった。あとは大して変わっていないな」ということでした。我ながら、面白味に欠ける結論です。

平均的なオッサンサラリーマンですが、性格の方はあんまり平均的ではなくて、そもそも人付き合いが苦手です。みんなと力を合わせて大きなものを作るより、ひとりで黙々と作業をしている方が満足度は高いです。「自己満足」という言葉は否定的な意味を持って使われることが多いと感じますが、個人的には「自己満足」大好きです。それで十分と思えます。

もともと飲み会が苦手な方でしたので宴会自粛はむしろありがたいことです。
幸いなことに、自分の属する業界は(今のところは)コロナ禍の影響を受け難いものでした。よって仕事の忙しさも特に変化ありませんでした。
リモートワークについては、自分の職種とは相性が悪くて、あんまりやっていません。
オフに外食や旅行に行きにくくなりましたが、そもそもそんなにしょっちゅう外食や旅行してたわけではないし。

StayHomeが世の人々から様々なものを奪い、そのヘッジとして様々なtipsが生み出されているようです。そのような時代の流れに逆らうことなく、かと言って流されることもなくいることができるのは、結果として幸いなことだと感じます。もちろん大前提として、サラリーを頂くことができる立場を維持できたことが大きいわけですが。

今回、ワタシのようにStayHomeウェルカムな人間というのは、やはり少数派だということがよく分かりました。社会的に「弱者」とも言えるのではないでしょうか。世間に流され難い分、世間に影響を与え難い、よって社会を動かす存在にはなり得ない、というのは固定観念だとは思いますが、まだまだ少なからずある考えだと感じます。
この度のコロナ禍で奇しくも、社会全体が弱者サイドにシフトしたと捉えることができます。ワタシ自身は、この一年の変化と言われてもピンとくるものはありませんが、ワタシの周囲の人たちには「生きづらくなった。窮屈になった」という感想を抱いている人もいるようです。
少し不謹慎ですが、今のこの状況は、実社会で大きな実験を行なっているのだと考えてしまうことがあります。不可抗力ですが、でもこのレベルの不可抗力でもない限り絶対に起こらないようなことが起こっていますよね。
ではこのままコロナが落ち着いて真の意味で共存が見えた時、StayHomeよりにシフトした社会は揺り戻しがあるのか否か。最終的にどの状態で落ち着くのか。そして何より、ワタシ自身はその時なにを感じているのか。
今の弱者が少しでも生きやすいところに落ち着いたらいいな、とは思います。そうなったらワタシ自身も流石に「色々変わったな」くらいの感想は持てるかな。

『麒麟がくる』を見終わった

一週間遅れて最終回の視聴を終えました。素晴らしい大河ドラマでしたね。終わってみれば、今回のような光秀像が過去無かったのが不思議でなりません。それくらい新しい上に説得力も持っていたと思います。

最終回は、光秀まわりの人々の複雑な心模様を描いておいてからの圧巻の『本能寺の変』に突入。信長の振る舞いがもう完全に信長でした。光秀の振る舞いはもう完全に『信念の人』でした。信長に天下を取らせようと夢見たところからの、本能寺の変に至る苦悩を伴う心の移り変わりを、見事に表現していたと思います。個人的には山﨑の戦いで秀吉に討たれるところまで込みで描いて欲しかったと思うところはありますが、終わってみればどっちでも良かったかなと思えます。一番描きたかったのは本能寺の変でしょうし。

最終回のラストでは本能寺の変の3年後が描かれていました。光秀が実は生きていたということに含みを持たせたうえでの『完』でした。賛否両論でしょうが、光秀生存説というのは割と有名な説だし、あくまでも「かもしれない」で含みを持たせた終わり方で、これはこれで良かったですね。

さて、主人公が討たれてから3年後の市井を描くこと自体が、大河ドラマでは珍しいのではないでしょうか。その3年後の一幕として、とある人物が『秀吉様が関白になられたそうな』的な台詞を言います。当たり前ですが、光秀と信長亡き後も世の中は動いているわけです。ワタクシ今回、ここのところで結構なカタルシスを感じました。
今まで物語の中心にいた光秀と信長がいなくなって、お話としてはそこで終わって良いはずです。しかし中心人物がいなくても時間の流れは変わるわけではなく、日々刻々と物語は進行しているのですよね。
であれば、今ここにワタシが存在する意味は一体なんだ?
まで考えたわけでは流石にありませんが、人の儚さみたいなものは十分に感じることができるラストでした。

いやあ、本当に良かったですね。

現場張り付きで疲れた日

現場に張り付かないといけない時があります。よからぬことが起こらないように見張るために。なぜよからぬことが起こるのでしょうか。

  • バグを抱えたまま運用している、ということが分かっている。
  • リリースしたばかりだしバグあるかもしれない。

ただただ現場に張り付いているよりも、よからぬことが起こってもダメージをミニマムにする仕組みを考えたり、即座に発見できる仕組みを考えるのにリソース割く方が、生産性があって次につながります。が、現場で張り付いているからこその気付きもないわけではありません。ちょっと精神論な部分になりますが、気の持ちようで有意義な時間にすることもできるかもしれません。

ただ、何も起こらなくて何もしていなくても異様に疲れますね。
今日はほぼ丸一日「張り付き」の日で、御多分に洩れずたいそう疲れました。上の二択で言うと後者だったので、まだ気は楽だったにも関わらず。